正確な歴史ではございませんので、ご了承下さい。
元服
郡山合戦から二年が過ぎた晩夏、元春は元服した。
長い幼髪が切られて頭は軽くなったはずなのに、かえって肩のあたりが重くなった気がする。
――大人とは、こうも窮屈なものか。
子供扱いされなくなるのは大歓迎だったが、といって諸手をあげて感激するほどよい立場ではないのかもしれない。
七歳上の兄、隆元が笑いかけてくる。
「よく似合っているぞ」
そう言いつつ、兄はわずかに憐れむような視線であたりを見渡した。
「せっかくの元服の時くらい、もう少し、華やかであればよかったのだがな」
隆元は、山口の大内家に人質として滞在していた間に、周防太守・大内義隆自身を烏帽子親として元服している。
唐渡りの文物と京風の空気で華やかな山口での元服は、鄙びた吉田郡山の山の中のものとは、何もかもが違ったことだろう。
「別に構いません」
重さを少しでも払おうと、元春はぐるりと肩を回した。
「本当か」
隆元は疑わしげに元春を見やる。
生来の涼やかな容姿に、山口帰りらしい優雅な雰囲気までもが加わったこの兄ならば、なるほど、不満に思うかもしれない。
けれども元春は山口を知らない。気になるのは自ずと他のことになる。
「それよりも、いただいた名の方が少し」
たぶんこの肩の重さは、今日から自分のものになった諱の方に理由がある。
元春。
長兄の諱が「隆元」である以上、「元」の字を上に戴くのはいい。
問題なのは、その下に「春」がついていることである。
「元阿入道さまと同じ名とは、肩の荷が重く思います」
毛利元春では、この吉田郡山城を毛利家に取り戻した七代前の英雄とまったく同じになってしまう。
「父上は、それだけおまえに期待しているのさ」
隆元がどんと力を込めて肩を叩いてくる。
元服したばかりの若年ながら、元春は、すでに体格では兄を超えかけている。その肩はこともなく兄の手を受け止める。
隆元は少しまぶしそうな顔をした。
「何しろ二年前、童形のまま早くも武功を立てたのだからな――私とは違って」
兄の顔にさした一瞬の翳りを、元春は心底ふしぎがりながら見つめた。
「当たり前です。兄上は父上の後を継ぐお方。私とは違う」
「そういう意味で言ったのではないよ、少輔次郎」
「同じことです。戦は私に任せて、兄上は後ろにどんと構えていらっしゃればよい。私が兄上の下知どおりに戦います」
「少輔次郎――おまえは、それでいいのか」
「いいも何も、私は父上の子、兄上の弟です。それ以外どうせよと」
ふっ、と隆元は笑った。
満足そうな、それでいてどこかくやしそうな笑みの意味がわからず、元春は困惑した。
大人になると、こうした複雑な表情の意味も汲み取らなければならないのだろうか。
「頼りにしているよ、わが家の勇将を」
隆元は言った。
そうだ、と元春はやっと思い出した。
「まあ毛利元春を名乗るのも、あと何年かのことですし」
父・元就には弟がいる。
生まれつき足が不自由だったため寺に入っていたその叔父には、子がない。
還俗した叔父は、元就が滅ぼした高橋家庶流の北家を継いでおり、元春はいずれその叔父の養子となることが内々決まっている。
「北元春ならば、元阿入道さまとまったく一緒でもありませんから、少しは気が楽です」
「小早川元春でなくてよかったのか」
隆元はそっと訊いた。
小早川家は、同じ安芸の国人である。
元就の兄の娘が嫁いでいたが、後継ぎに恵まれないまま当主の興景が死去したため、毛利から養子が欲しいと言ってきた。
毛利としても断わる理由はない。話自体はすでにまとまっている。
「あちらは徳寿と決まっているではありませんか」
元春の三歳下の弟、徳寿丸が小早川家に行く。
「しかし、北と小早川では、何から何まで違うぞ。徳寿が行く竹原小早川は分家だが、本家の沼田小早川も当主はまだ幼児で、しかも盲目になったといううわさもある。何年かの後には、徳寿が小早川の本家も継ぐことになるかもしれない」
「はあ。ですがどちらの家を継ごうと、父上と兄上にお仕えすることに代わりはありません」
元春はまたふしぎに思って兄の顔を見つめる。
すると、兄もまたまったく同じ顔で元春を見つめていた。
元春は思わず苦笑した。
「兄上は物事にお詳しい分、好みが細かいのでございますな」
吉田郡山よりも山口、北よりも小早川。
隆元はどちらも知っているから比べてしまうのだろうが、元春は比べる対象をよく知らない。
というよりも、最初から興味がないという方が当たっている。
「私はよくわかりませぬゆえ、何でもようございます」
元春の返答に、今度は隆元が苦笑した。
「まったくおまえと来たら。どうしてそうけろっとした顔でいられるのかな」
「そんな顔をしていますか」
「ああ、している」
ぱたぱたという足音がして、徳寿丸がひょこりと顔をのぞかせる。
「あれ、兄上たちはおそろいで」
色白で、見るからに利発そうな顔立ちは美童といっていい徳寿丸だが、表情は年相応のな生意気さを隠せていない。
じろじろと大人の姿の元春を眺めて、にいっと笑う。
「少輔次郎の兄上は老けていらっしゃるから、これで私も助かりました。そんな顔で童形なんて、見る度におかしくて」
「こら、徳寿」
十歳も違う長兄のたしなめを、徳寿丸は風がそよいだほどにも気にしていない。
「少輔太郎の兄上もですよ。いつもまじめくさった顔で考え込んで、心配性の年寄りみたいだ。さっさと嫁でもお迎えになればよいのに」
「子供のくせに生意気を言うな」
言い返しながら、隆元は少しうろたえた様子だった。
たしかに、隆元はすでに嫁を迎えていてもいい年齢である。毛利の嫡男としてはむしろさっさと嫁を娶って子を作れ、という家臣たちも少なからずいるらしい。
しかし好みの細かいこの兄は、嫁にもらう娘も誰でもいいというわけではないのだろう。
山口が忘れられないのだろうな、と元春はふと思った。
徳寿丸は、まだ隆元をからかっている。
「もしかして、どなたか意中の方でもいらっしゃるのですか。でしたらお得意の絵でも歌でもお贈りになって、すぐにでも求婚すればいかがです。ぐずぐずしていては他の男に奪られてしまいますよ」
「子供が生意気を言うなというのだ。おまえは自分の心配でもしていろ」
「私には嫁の心配など要りませんよ。たぶん、沼田小早川の娘をもらいますから」
さらりとそんなことを言う。
隆元もさすがにあきれた顔をした。
「末恐ろしい奴だな。もうそんなことを考えているのか」
「私が竹原小早川に行くことになったひとつの理由は、前の当主に毛利から嫁が行ったからでしょう。嫁は重要です」
「だからといって、先のことをそう決めつけては足もとをすくわれる。なにしろ相手のあることだぞ」
「無事に育ってくれさえすればかまいませんよ。沼田小早川の娘は赤ん坊で、私と結婚する頃でもまだ子供です。きっと素直なよい嫁になってくれますよ。であれば私も大切にします。いにしえの光源氏はそうだったのでしょう」
「こら、おまえは」
どうやら弟にもはっきりと自分の好みがあるらしい。
ただ隆元と違っているのは、徳寿丸には相手を自分の好みに変えてしまおうという積極性があることだった。
ふたりともご苦労なことだ、と傍らで眺めている元春などは思う。
物事はあるがままに受け入れてしまうことが一番たやすいというのに。
ふと隆元がこちらを向いた。
「少輔次郎、何を他人事のような顔をしている。徳寿はともかく、おまえももう立派な大人だ。嫁取りはそう遠い話ではないぞ」
「はあ」
「気のない返事だな。相手の心づもりはないのか」
「ありません。というか、このあたりにどんな娘がいるのかよく知りません」
そう答えた時、元春はふと熊谷の次男・鶴寿丸を思い出した。
彼はすでに元服をすませて直清を名乗り、叔父の娘を娶って後を継いだと聞いている。
その彼が敵よりも怖いと言った姉。
彼女は、もうどこかの男に嫁いだのだろうか。
「あれ、あれあれ。その顔はあてのある顔だ」
いたずらっぽく徳寿丸が顔を見上げてきた。
「兄上も存外と抜け目ない。どこのどんな娘です」
「違う。ばか」
「うそだ、ねえ兄上、教えて下さいよ。兄上の嫁なら、私の姉になるんですから」
「違うと言っているだろう」
「うそだうそだ」
逃がすまいとしてか、徳寿丸が腕を取る。
しつこい弟がわずらわしくなってきて、元春はわずかに眉をひそめた。
「しっ。徳寿、ほら」
隆元が口もとに指を立てて声をひそめた。
「母上がお呼びだ」
耳をすませると、確かに母が徳寿丸を呼ぶ声がする。
近ごろ少し痩せてきたように見える母は、小早川への養子話が出てからというもの、この末っ子を暇さえあればそばに置きたがる。
「本当だ。じゃあ母上のお相手をしなければなりませんので、失礼します、兄上」
口調は相変わらず生意気なままだが、その顔にさっと無邪気な幼さが戻ったことを、ふたりの兄は知っている。
徳寿丸はまたぱたぱたと足音を立てて去っていった。
「大人だか子供だかわからん奴だ」
隆元が苦笑する。
「……いや、やはりまだ子供か。先日の夜は、母上と物語をしているうちにそのまま膝の上で眠ってしまったそうだ。母上もだが、徳寿も寂しいのかもしれないな」
「そうですね」
「また、おまえは他人事のように」
隆元の今度の苦笑は、元春が原因らしかった。
「この家を出るのはおまえも同じなんだぞ。今のうちに母上に甘えておかなくていいのか」
「私は結構です。それに母上にしたところで、徳寿に甘えられる方が嬉しいと思います。昔から姉上と徳寿がお気に入りですから」
隆元はため息をついた。
「おまえはおまえで、昔から私より大人のようだ。羨ましいよ。おまえは何があろうと動じるということはないのだろうな」
元春はちょっと考えた。
「さあ、わかりません」
「そういうおまえだからこそ、父上は元阿入道さまの名を与えたのだろうな」
「どうでしょう。私にそうあってほしいという願いで――」
元春は珍しく言いよどんだ。
毛利本家を継ぐ兄と、小早川家を継ぐ弟。
その間でひっそりと叔父の後を継ぐ次男に父は気をつかったのかもしれないと、ふと思い至ったためである。
――だとしたら、父上もご苦労なことだ。
父はさまざまなことに気を配っている。
大事は天下の情勢から、小事は自分たちの兄弟仲まで。
元春が兄弟と比べた自分の境遇に不満を抱かないようにと、せめて輝かしい先祖と同じ諱を与えたのかもしれない。
元春は軽く息をついた。
そんなことを根に持つ男と父に思われているのかと思うと、その方がいらだたしい。
「期待、だよ」
隆元が言った。
「それに、父上の親心だ。受けておけ。それもまた孝行だ」
と、元春のいらだちを知ってなだめるかのように微笑む。
「はい」
こういうところはさすがに兄だと、素直に元春はうなずいた。
兄は自分を大人だと言ったが、元春には兄の方がはるかに大人に見える。
大人の面倒なことはすべて、きっとこの兄が引き受けてくれるだろう。
「この名に恥じぬよう、努めます」
隆元は元春の肩に手を置いた。
その手の重みは、悪いものではなかった。
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やっぱりまだ嫁に会ってないwあれー?
初出:2010/10/10
郡山合戦から二年が過ぎた晩夏、元春は元服した。
長い幼髪が切られて頭は軽くなったはずなのに、かえって肩のあたりが重くなった気がする。
――大人とは、こうも窮屈なものか。
子供扱いされなくなるのは大歓迎だったが、といって諸手をあげて感激するほどよい立場ではないのかもしれない。
七歳上の兄、隆元が笑いかけてくる。
「よく似合っているぞ」
そう言いつつ、兄はわずかに憐れむような視線であたりを見渡した。
「せっかくの元服の時くらい、もう少し、華やかであればよかったのだがな」
隆元は、山口の大内家に人質として滞在していた間に、周防太守・大内義隆自身を烏帽子親として元服している。
唐渡りの文物と京風の空気で華やかな山口での元服は、鄙びた吉田郡山の山の中のものとは、何もかもが違ったことだろう。
「別に構いません」
重さを少しでも払おうと、元春はぐるりと肩を回した。
「本当か」
隆元は疑わしげに元春を見やる。
生来の涼やかな容姿に、山口帰りらしい優雅な雰囲気までもが加わったこの兄ならば、なるほど、不満に思うかもしれない。
けれども元春は山口を知らない。気になるのは自ずと他のことになる。
「それよりも、いただいた名の方が少し」
たぶんこの肩の重さは、今日から自分のものになった諱の方に理由がある。
元春。
長兄の諱が「隆元」である以上、「元」の字を上に戴くのはいい。
問題なのは、その下に「春」がついていることである。
「元阿入道さまと同じ名とは、肩の荷が重く思います」
毛利元春では、この吉田郡山城を毛利家に取り戻した七代前の英雄とまったく同じになってしまう。
「父上は、それだけおまえに期待しているのさ」
隆元がどんと力を込めて肩を叩いてくる。
元服したばかりの若年ながら、元春は、すでに体格では兄を超えかけている。その肩はこともなく兄の手を受け止める。
隆元は少しまぶしそうな顔をした。
「何しろ二年前、童形のまま早くも武功を立てたのだからな――私とは違って」
兄の顔にさした一瞬の翳りを、元春は心底ふしぎがりながら見つめた。
「当たり前です。兄上は父上の後を継ぐお方。私とは違う」
「そういう意味で言ったのではないよ、少輔次郎」
「同じことです。戦は私に任せて、兄上は後ろにどんと構えていらっしゃればよい。私が兄上の下知どおりに戦います」
「少輔次郎――おまえは、それでいいのか」
「いいも何も、私は父上の子、兄上の弟です。それ以外どうせよと」
ふっ、と隆元は笑った。
満足そうな、それでいてどこかくやしそうな笑みの意味がわからず、元春は困惑した。
大人になると、こうした複雑な表情の意味も汲み取らなければならないのだろうか。
「頼りにしているよ、わが家の勇将を」
隆元は言った。
そうだ、と元春はやっと思い出した。
「まあ毛利元春を名乗るのも、あと何年かのことですし」
父・元就には弟がいる。
生まれつき足が不自由だったため寺に入っていたその叔父には、子がない。
還俗した叔父は、元就が滅ぼした高橋家庶流の北家を継いでおり、元春はいずれその叔父の養子となることが内々決まっている。
「北元春ならば、元阿入道さまとまったく一緒でもありませんから、少しは気が楽です」
「小早川元春でなくてよかったのか」
隆元はそっと訊いた。
小早川家は、同じ安芸の国人である。
元就の兄の娘が嫁いでいたが、後継ぎに恵まれないまま当主の興景が死去したため、毛利から養子が欲しいと言ってきた。
毛利としても断わる理由はない。話自体はすでにまとまっている。
「あちらは徳寿と決まっているではありませんか」
元春の三歳下の弟、徳寿丸が小早川家に行く。
「しかし、北と小早川では、何から何まで違うぞ。徳寿が行く竹原小早川は分家だが、本家の沼田小早川も当主はまだ幼児で、しかも盲目になったといううわさもある。何年かの後には、徳寿が小早川の本家も継ぐことになるかもしれない」
「はあ。ですがどちらの家を継ごうと、父上と兄上にお仕えすることに代わりはありません」
元春はまたふしぎに思って兄の顔を見つめる。
すると、兄もまたまったく同じ顔で元春を見つめていた。
元春は思わず苦笑した。
「兄上は物事にお詳しい分、好みが細かいのでございますな」
吉田郡山よりも山口、北よりも小早川。
隆元はどちらも知っているから比べてしまうのだろうが、元春は比べる対象をよく知らない。
というよりも、最初から興味がないという方が当たっている。
「私はよくわかりませぬゆえ、何でもようございます」
元春の返答に、今度は隆元が苦笑した。
「まったくおまえと来たら。どうしてそうけろっとした顔でいられるのかな」
「そんな顔をしていますか」
「ああ、している」
ぱたぱたという足音がして、徳寿丸がひょこりと顔をのぞかせる。
「あれ、兄上たちはおそろいで」
色白で、見るからに利発そうな顔立ちは美童といっていい徳寿丸だが、表情は年相応のな生意気さを隠せていない。
じろじろと大人の姿の元春を眺めて、にいっと笑う。
「少輔次郎の兄上は老けていらっしゃるから、これで私も助かりました。そんな顔で童形なんて、見る度におかしくて」
「こら、徳寿」
十歳も違う長兄のたしなめを、徳寿丸は風がそよいだほどにも気にしていない。
「少輔太郎の兄上もですよ。いつもまじめくさった顔で考え込んで、心配性の年寄りみたいだ。さっさと嫁でもお迎えになればよいのに」
「子供のくせに生意気を言うな」
言い返しながら、隆元は少しうろたえた様子だった。
たしかに、隆元はすでに嫁を迎えていてもいい年齢である。毛利の嫡男としてはむしろさっさと嫁を娶って子を作れ、という家臣たちも少なからずいるらしい。
しかし好みの細かいこの兄は、嫁にもらう娘も誰でもいいというわけではないのだろう。
山口が忘れられないのだろうな、と元春はふと思った。
徳寿丸は、まだ隆元をからかっている。
「もしかして、どなたか意中の方でもいらっしゃるのですか。でしたらお得意の絵でも歌でもお贈りになって、すぐにでも求婚すればいかがです。ぐずぐずしていては他の男に奪られてしまいますよ」
「子供が生意気を言うなというのだ。おまえは自分の心配でもしていろ」
「私には嫁の心配など要りませんよ。たぶん、沼田小早川の娘をもらいますから」
さらりとそんなことを言う。
隆元もさすがにあきれた顔をした。
「末恐ろしい奴だな。もうそんなことを考えているのか」
「私が竹原小早川に行くことになったひとつの理由は、前の当主に毛利から嫁が行ったからでしょう。嫁は重要です」
「だからといって、先のことをそう決めつけては足もとをすくわれる。なにしろ相手のあることだぞ」
「無事に育ってくれさえすればかまいませんよ。沼田小早川の娘は赤ん坊で、私と結婚する頃でもまだ子供です。きっと素直なよい嫁になってくれますよ。であれば私も大切にします。いにしえの光源氏はそうだったのでしょう」
「こら、おまえは」
どうやら弟にもはっきりと自分の好みがあるらしい。
ただ隆元と違っているのは、徳寿丸には相手を自分の好みに変えてしまおうという積極性があることだった。
ふたりともご苦労なことだ、と傍らで眺めている元春などは思う。
物事はあるがままに受け入れてしまうことが一番たやすいというのに。
ふと隆元がこちらを向いた。
「少輔次郎、何を他人事のような顔をしている。徳寿はともかく、おまえももう立派な大人だ。嫁取りはそう遠い話ではないぞ」
「はあ」
「気のない返事だな。相手の心づもりはないのか」
「ありません。というか、このあたりにどんな娘がいるのかよく知りません」
そう答えた時、元春はふと熊谷の次男・鶴寿丸を思い出した。
彼はすでに元服をすませて直清を名乗り、叔父の娘を娶って後を継いだと聞いている。
その彼が敵よりも怖いと言った姉。
彼女は、もうどこかの男に嫁いだのだろうか。
「あれ、あれあれ。その顔はあてのある顔だ」
いたずらっぽく徳寿丸が顔を見上げてきた。
「兄上も存外と抜け目ない。どこのどんな娘です」
「違う。ばか」
「うそだ、ねえ兄上、教えて下さいよ。兄上の嫁なら、私の姉になるんですから」
「違うと言っているだろう」
「うそだうそだ」
逃がすまいとしてか、徳寿丸が腕を取る。
しつこい弟がわずらわしくなってきて、元春はわずかに眉をひそめた。
「しっ。徳寿、ほら」
隆元が口もとに指を立てて声をひそめた。
「母上がお呼びだ」
耳をすませると、確かに母が徳寿丸を呼ぶ声がする。
近ごろ少し痩せてきたように見える母は、小早川への養子話が出てからというもの、この末っ子を暇さえあればそばに置きたがる。
「本当だ。じゃあ母上のお相手をしなければなりませんので、失礼します、兄上」
口調は相変わらず生意気なままだが、その顔にさっと無邪気な幼さが戻ったことを、ふたりの兄は知っている。
徳寿丸はまたぱたぱたと足音を立てて去っていった。
「大人だか子供だかわからん奴だ」
隆元が苦笑する。
「……いや、やはりまだ子供か。先日の夜は、母上と物語をしているうちにそのまま膝の上で眠ってしまったそうだ。母上もだが、徳寿も寂しいのかもしれないな」
「そうですね」
「また、おまえは他人事のように」
隆元の今度の苦笑は、元春が原因らしかった。
「この家を出るのはおまえも同じなんだぞ。今のうちに母上に甘えておかなくていいのか」
「私は結構です。それに母上にしたところで、徳寿に甘えられる方が嬉しいと思います。昔から姉上と徳寿がお気に入りですから」
隆元はため息をついた。
「おまえはおまえで、昔から私より大人のようだ。羨ましいよ。おまえは何があろうと動じるということはないのだろうな」
元春はちょっと考えた。
「さあ、わかりません」
「そういうおまえだからこそ、父上は元阿入道さまの名を与えたのだろうな」
「どうでしょう。私にそうあってほしいという願いで――」
元春は珍しく言いよどんだ。
毛利本家を継ぐ兄と、小早川家を継ぐ弟。
その間でひっそりと叔父の後を継ぐ次男に父は気をつかったのかもしれないと、ふと思い至ったためである。
――だとしたら、父上もご苦労なことだ。
父はさまざまなことに気を配っている。
大事は天下の情勢から、小事は自分たちの兄弟仲まで。
元春が兄弟と比べた自分の境遇に不満を抱かないようにと、せめて輝かしい先祖と同じ諱を与えたのかもしれない。
元春は軽く息をついた。
そんなことを根に持つ男と父に思われているのかと思うと、その方がいらだたしい。
「期待、だよ」
隆元が言った。
「それに、父上の親心だ。受けておけ。それもまた孝行だ」
と、元春のいらだちを知ってなだめるかのように微笑む。
「はい」
こういうところはさすがに兄だと、素直に元春はうなずいた。
兄は自分を大人だと言ったが、元春には兄の方がはるかに大人に見える。
大人の面倒なことはすべて、きっとこの兄が引き受けてくれるだろう。
「この名に恥じぬよう、努めます」
隆元は元春の肩に手を置いた。
その手の重みは、悪いものではなかった。
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初出:2010/10/10
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